釜山ポムネゴル本聖地に行く(涙の岩、統一の園)
高く上るほど下に降りていくべき
その時代が懐かしい。その時が一番良かったよ。御父(神様)の事情を知り、可愛そうな民族の事情を知ったが故に「涙の食口」になることができ、親の心情を持って彼ら(民族)のために祈り、すべてを投入することができたのです。自分の基盤が出来て、見下ろすときに自分の一族を先に見てはならないのです。高い地位に上れば自分の一族を思い、あのどん底の人たちを考える余裕がないのです。低いところにいれば、世界のすべてを高く見上げることができるけど。それで私は、身近な一族を追い出しました。自分の息子娘を一番先に追い出したのです。こうしてこそ、高く上っても穴を深く掘り下げて行くことが出来るようになります。(天一国時代の牧師の道p37)
去る10日、釜山の聖地に行かなければならないという霊界メッセージを受け、早速13日からポムネゴル本聖地や第3埠頭など聖地を巡礼してまいりました。今回の聖地巡礼では、すでに霊界に行かれた栄進任と統一家の大先輩たちが同行するという特別な恵みがありました。先輩たちに「後輩たちに伝えたいメッセージはありませんか」と尋ねると、「余りにも申し訳なくて何も言える立場ではありません」と答えました。そして栄進任は、教会がもう一度草創期の心情に立ち返り再出発しなければ、お父様のハン(恨)を解くことが出来ないと泣きながら語りました。以前、鮮文大を除いてすべてはなくなると言われた霊界メッセージを改めて思い出す瞬間でした。
私は、今回の聖地巡礼を控えて数日前から「良い人に会わせてください」と祈りましたが、ポムネゴル「涙の岩」から虎川山を登り「統一の園」まで行くと、日本人女性に会いました。彼女は、94年済州島修練会でお父様が聖地を清掃してくれる人を探しておられた時に手を上げ名乗り出た唯一人の人で、それ以来約束を守るために数十年間聖地を掃除しながら、真のご家庭のために精誠を尽くしてきたそうです。
秋田県出身の彼女は「自分は言われたことしかできないバカです」と笑いながら話していました。そんな彼女に、「お父様は『言われたとおりにやるバカ』が大好きなお方です。おそらく、その精誠が天に届いて、秋田出身の菅氏が次期首相に選ばれたかも知りません。これから新しい日韓関係が期待できますね」と激励の言葉をかけました。「霊界は理屈ではなく心情で繋がる世界」であると言われるように、お父様は「心情の絆」を重んじ約束を守ってきた彼女の精誠を覚えてくださり、導いてくださっていることを強く感じました。
結論的に、今回の聖地巡礼は、真のお父様を中心とした摂理路程の再出発地である釜山で霊界の栄進任と統一家の大先輩たちが共に再出発を誓い合う時間となりました。最後に青坡洞旧本部教会を先輩たちと一緒に訪ねた栄進任は「あなた方はやり直さなければいけませんよ。私が孝子として立ちますから、従ってきて下さい」と決意の祈りを捧げ、今回の聖地巡礼を締めくくりました。この日を待ち望みながら数日前から何度も現れて導いてくださり、大変喜んでくださった真のお父様に深く感謝申し上げます。
✱ポムネゴル:虎(ポム)が出没する川(ネ)が流れる谷(ゴル)
韓民族の預言書「鄭鑑録」は「利在八金山」と予言していますが、韓国戦争のような艱難時に「釜(八+金)山」に避難すれば助かるという意味なのです。不思議なことに、真のお父様が釜山に避難し定着した凡一洞近くの山がまさに「八金山」であったのです。釜山は、真のお父様を中心とした摂理路程を再出発した母胎であり、新しい御言が出現した歴史的聖都でもあります。あの暗鬱で絶望的な時代状況の中で、釜山の一番奥の谷から民族と万民を新しい希望と生命の道に導く新しい御言とその主人公(虎)が出現したのです。(真の父母様の生涯と摂理第1巻 p316)
父よ、心配しないでください
1951年、文鮮明先生は釜山の第3埠頭で石担ぎの仕事をしながら半月ほど過ごされた。ときには、市内近くの日当たりのよい山に登り、瞑想やお祈りをしながら、将来を計画し休まれた。日だまりの森や防空壕の中でも休まれた。起きて服を着ると金サッカの歌が思い浮かび、その場を立ち去ろうとすると岩や森が悲しむので、家よりも大切に思えた。
【御言選集】神様は小さな包みを背負った金サッカ!
雪やみぞれが降るとき、道端で労働者の惨めな姿を見ると「我が父もあのような仕事をしたんだ!」と真のお父様を連想しなければならない。文先生は時には、誰かが物乞いしてきた食べ物を召し上がり、昼飯の代わりにヌルンジ(おこげスープ)を召し上がった。
それは、ただ単に空腹を満たすだけではなく、その時代の民族が感じた人生の哀歓をすべて体験する劇的且つ印象的瞬間であった。そのような物乞い生活やかじかんだ足をバタつかせながら過ごした酷寒の中でも「父よ、心配しないでください。嘆き悲しみながら歩まれた父の足跡を喜びと希望を持って受け継いでいきます」と祈った。
そんな時、(釜山)草梁駅前で小豆粥や蒸し餅を売るおばさんたちと親しくなった。埠頭の仕事を終えてから暖かい小豆粥の窯を抱いて30分ほど話をすれば、ただで小豆粥を食べさせてくれたり、数日後にはお金を預けるほど親しくなった。当時は、小豆粥が世界で一番美味しい食べ物だった。小豆粥を売るのに熱心なおばさんの姿、垢がついた手でお粥をくれたその姿を何時も懐かしく思う。(真のお父様の生涯と摂理 第1巻 p289-290)